仕事終わりの、なんでもない夜だった。
特別な約束でもなくて、
ただタイミングが合ったから、
恋人未満のその人とご飯に行った。
会話はそれなりに楽しくて、
沈黙も気まずくない程度。
「悪くないかも」って思えるくらいの距離感。
好きと言い切るには足りなくて、
でもどうでもいいわけでもない。
そんな、名前のつかない関係だった。
店を出ると、夜は思ったより静かで、
少し冷たい風が頬に触れた。
並んで歩く帰り道。
さっきまでの空気がふわっと続いていて、
このまま何も起きずに終わるんだろうな、と思っていた。
駅が見えてきた頃、
その人がふと足を止めて、空を見上げた。
つられて視線を上げると、
丸い月が浮かんでいた。
綺麗だな、とは思った。
ただ、それだけの感想。
少しの沈黙のあと、
その人が言った。
「月が綺麗ですね」
その瞬間、
なぜか心が一歩引いた。
その言葉の意味を、
知らないわけじゃない。
夏目漱石が「I love you」を
「月が綺麗ですね」と訳した、
なんて話をどこかで聞いたことがある。
つまりそれは、
遠回しな告白みたいなもの。
でも、だからこそ、
余計に違和感があった。
この距離で?
このタイミングで?
この関係で?
ロマンチックなはずの言葉が、
意図してないタイミングで
急に現実に引き戻される。
さっきまで自然だった時間に、
急に意味が乗せられた気がした。
返事に少し迷って、
「ほんとだね」とだけ言った。
その言葉に、
それ以上の意味は持たせなかった。
たぶん向こうは、
何かを期待していたのかもしれない。
でも私の中では、
その一言で、何かが始まるどころか、
少しだけ終わってしまった。
月は変わらず綺麗で、
夜も静かなままなのに、
心だけがすっと冷めていく。
恋が始まるきっかけって、
きっとこういう一言だったりする。
でも同じくらい、
終わるきっかけにもなる。
「月が綺麗ですね」
その意味を知っているからこそ、
受け取れない夜もある。
すぱみ🌈
